★★★熊本大学応援団の沿革★★★

①創成期の思い出

1966年(昭和41年)

●2月-「応援団を作りたいと思うんですが、協力していただけませんか」……当時の熊大体育会委員長から相談を受けた空手道部部員Wがいた。その部員は軽い気持ちで引き受けた。(Wは初代団長)
●5月-対商大(現熊本学園大学)春季定期戦の市中パレードの集合場所「花畑公園」に多くの体育会所属の学生が集まった。商大と熊大がむかいあって挨拶をかわす。エールの交換も行われる。商大が済んで熊大がエールを切る順番になる。一人の団員も持たない、文字通り名目だけの団長はエールを切ったこともないが、ここでやらねば戦う前から熊大が敗れたことになる。この瞬間にWは、応援団結成への決意をした。

(写真は、その翌年の昭和42年11月の対商大定期戦での開会式)

 

●7月-暑い日差しの中、熊大応援団部員は上半身は裸であった。熊商大との合同練習の1,2の声がグラウンドに広がる。額からの汗が流れ前が良く見えない。疲労からそのまま眠ってしまいそうだった。その瞬間、地獄のシコ立ちの練習が終わった。やっとの思いで立ち上がったら、押忍という声とともにランニングになった。最後の力を振り絞って全員が走り続けた。熊大応援団部員がトップで戻ってきた、全員がヤッタぞと思った。応援団結成して初めての商大との合同練習は終わった。

●同7月-九州インカレが佐賀で開催。覚えたてのエール交換では8名の部員であったが、他大学応援団に負けなかったつもりでエール。破れ太鼓にオンボロの旗。それでも胸を張って歩いた。演武が無くて、号令に合わせて空手のから突きをやった。

●11月-旧制五高寮歌の「武夫原頭に草萌えて」の演武が完成した。即興で作ったようなものであったが、 この演武が今日前まで残ることになるとは誰も思わなかった。

●翌年4月-初めての新入生(第4代)を迎える。応援団は着実に前進し始めた。

(S42年2月応援団創立記念写真)    (S43年4月新入生歓迎コンパ:草千里)(S43年-3,4,5代目の練習ユニフォーム)

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②飛躍と発展

●日々の練習は武夫原や立田山であった。立田山の裏には魔の階段があった。階段数は165段…嫌な練習だった。5~10回往復すればかなり疲労する。3代(昭和44年頃)の時代のある日、2回ほど往復したところで、リーダーが「30回やろうか!」と冗談めいて言った。そして10回が過ぎてもまた同じように登りだす。20回…まだやめない。とうとう冗談が本気になって30回をやってしまった。でも、それで終わりと思ったら、うさぎ跳び、あひるといつも練習が続いた。

●(昭和46年発行 機関紙-剛毅から 故金守顧問文)

今日も又、武夫原に夕闇が迫る頃、応援団の練習の声が研究室まで聞こえてくる。「ああ、今日も皆元気にやっているなあ。」私も頑張らなくてはと…自分を励ます。応援団の顧問になって、団員の諸君が何かと理由をつけて我が家にも押しかけてきた。私自身も諸君と、杯を交わしたり、人生や学内問題等について勝手きままな話をするのが楽しみであり喜びであった。そのことが楽しかった思い出として残っている。この十数年は私も熊大に在職していると思うが、今後、年をとればとるほど君たちとの語らいや思い出は大切なものになってくると信じているし、また大切にしていきたいと思っている。

●(昭和54年発行 機関紙-剛毅から)九州インカレが今年もやってきた。今年は、まさに地獄のインカレだった。7/13のボクシングの壮行会を皮切りに7月20日まで何と8日間の日程だった。天気は連日暑い日が続き、自分の学ランにも応援団の勲章である塩の縞と独特の臭いがこびりついていた。2回生としてリーダーになって初めての応援でとても気合が入っていた。硬式野球、水泳の応援、壮行会等で充実した日程だった。後半になると相当疲れもたまり、のども枯れて大変きつかったが、とにかく熊大に勝ってもらいたくて、一生懸命応援をした。たとえば、一度やってみたかったボシタ連呼の連発を他団員の反感を覚悟で敢行して、1イニング7回やった。終わった時は、さすがに足が痛かったが、とても気分が良かった。

そして、最終日7/20の準硬式野球の対商大戦を迎えた。相手の応援団も来ていた。応援合戦となり、グラウンドでは野球、スタンドでは応援合戦の2つの試合があっているようだった。野球の方は押され気味だったが、応援は絶対に負けないぞと思い、最後まで力を振り絞って応援した。結局、野球の方は惜しくも負けてしまったが、インカレ中、最高の応援ができた。 こうして、今年のインカレは終わったが、暑い中一週間以上も応援を続け、とても苦しかったが、何か貴重なものを得たような気がして、塩と臭いにまみれた学ランをそのままにとっておきたい気持ちになった。

   (魔の立田山階段)    (武夫原での練習:立田山側の旧部室棟も見える)  (熊大プール水泳応援)

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③応援団生活の日々

●一年の応援団生活を振り返ろう。昭和42年の初代から平成26年の29代までの応援団生活は、同じことの繰り返し、でもやっている人間は年々移り変わっている。同じことでもそれぞれの人間の考え方は違うが共通項もあった…。

●3月の春合宿…新3回生は演武の取得、新2回生はリーダーとしての自覚が目覚める。場所は武夫原だったり遠征合宿であった。

●4月の学館前の新入生勧誘は毎年、必死に取り組む。夜な夜な新入生の下宿先まで押しかけて勧誘は続く。そして新入生歓迎コンパは阿蘇、草千里であった。これも数々の思い出あが生まれた。

●5月の五大学総合体育大会の応援、6月の「幹部交代…。新入団員にとっては環境の変化、体力の個人差、精神力が問われるキツイ時期だ。

●夏になるとインカレに備えた夏合宿、そしてインカレ応援遠征につながっていく。熊本の夏は暑い、学ランの暑い。塩が噴き出す学ランであるが、これを乗り切る喜びも大きい。

●夏休み…実家に戻りひと時の息抜き。でも8月合宿が待っている。演武会に向けての演武練習、発声練習が繰り返される。9月には昼間から酒が飲める楽しい藤崎宮大祭の神輿担ぎのアルバイトもあった。

●秋になると前期試験の間は練習は抑え目であるが、それからが演武会に向けて連日、夜9時近くまでの練習が続く。それに遠歩に向けての長距離ランニングも始まる。

●12月には熊本市民会館で「演武会」を開催。日頃は応援をする立場の応援団が、一般学生や体育会クラブの仲間から声援拍手をもらう場になる。熊大体育会クラブの立田山駅伝も楽しみの一つだった。

●納会を終えて新年を迎える。新年の集いは、上通りの「峰楽饅頭」から始まる。一回生は饅頭10個くいにチャレンジするのが恒例になった。

●3月には4年生の追い出し練習とコンパがあった。怖い存在であった最上級生が優しく、そして別れが寂しくなる時だ。

●それに3年に一回はOB会を開催して社会人になって活躍している先輩と一緒に、愉しい酒宴が続いた。

  (立田山駅伝:武夫原で)       (藤崎宮大祭-ボシタ祭り)       (追い出しコンパ)

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④休部…その8年後の復活 更に飛躍を求めて

●熊大応援団も、他大学応援団と同じように団員の減少が大きな課題になっていた。そして、平成7年からは団員がいない休部状態になってしまった。

●休部になっても、応援団の必要だという考えで、部室は確保していただいた体育会本部には感謝しなければならない。

●その8年後には奇跡が起こった。平成15年(2003年)に入学した若者の熱い想いが応援団を復活に導いた。更にチアリーディングという新しい流れも合流することができた。

●その経緯は本HPの卒業生からのメッセージ一に詳しい記載有り。

●平成28年(2016年)10月に熊本大学応援団創立50周年記念事業を行うことができた。

  (BLAZES演技)        (マーチングメロディ)           (50周年記念事業)